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笠置シヅ子の死因は?晩年の活躍は?夫は?娘の現在は?代表曲は?

2018.07.05

昭和の大スター・笠置シヅ子さん。『東京ブギウギ』を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。現在は他界されていますが、死因は何だったのでしょう。また、晩年の活動は?夫は?今回は、笠置シヅ子さんの死因や晩年の活動、結婚や夫などについてまとめました。

  1. 【死因は?晩年の活躍は?夫は誰?】笠置シヅ子のプロフィール
  2. 【死因は?晩年の活躍は?夫は誰?】笠置シヅ子の曲といえば「ブギの女王」
  3. 【死因は?晩年の活躍は?夫は誰?】笠置シヅ子は宝塚を受験?
  4. 【死因は?晩年の活躍は?夫は誰?】笠置シヅ子の本名は?
  5. 【死因は?晩年の活躍は?夫は誰?】笠置シヅ子の夫は?
  6. 【死因は?晩年の活躍は?夫は誰?】笠置シヅ子と夫は入籍した?
  7. 【死因は?晩年の活躍は?夫は誰?】笠置シヅ子の娘を襲った事件とは?
  8. 【死因は?晩年の活躍は?夫は誰?】笠置シヅ子の娘の現在は?
  9. 【死因は?晩年の活躍は?夫は誰?】笠置シヅ子の死因は?
  10. 最期まで人気者だった笠置シヅ子
【笠置シヅ子(かさぎ シヅこ)】[女優・歌手][生年月日 1914年8月25日][出身地 香川県]戦後、『東京ブギウギ』が大ヒットした笠置シヅ子さん。派手なアクションと大阪仕込みのサービス精神にあふれた踊りで、たくさんの人を魅了してきました。笠置シヅ子さんが「ヘーイ・ヘイ」と客席に歌いかけると、客席からも「ヘーイ・ヘイ」とかえってくるなど、舞台と客席が一体となるパフォーマンスを繰り広げたそうです。
現在でも、笠置シヅ子さんの曲がカヴァーされ、日本のポップスに多大な影響を与え続けています。笠置シヅ子さんは、美空ひばりさんと並ぶ昭和の歌姫として人気となりました。
笠置シヅ子さんは、1945年から再開場した日本劇場の最初のショーから出演しました。そして、1947年のショーである『踊る漫画祭・浦島再び龍宮へ行く』で歌った曲が大ヒット。その曲が、戦後一世を風靡した曲『東京ブギウギ』です。笠置シヅ子さんが歌った曲である『東京ブギウギ』は、服部良一さんの作曲による曲で、その後も笠置シヅ子さんの歌う曲には、「ブギ」というフレーズがつけられました。
笠置シヅ子さんの歌う『東京ブギウギ』を、なんとなくでも聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。笠置シヅ子さんが『東京ブギウギ』以降に歌った曲は、『大阪ブギウギ』や『買物ブギ』といったものでどれも大ヒット。笠置シヅ子さんは当時、「ブギの女王」として日本中の人気者になりました。
笠置シヅ子さんは、小学校卒業後、宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)を受験したという経験があるようです。ブギの女王として名を馳せた笠置シヅ子さんですが、宝塚音楽歌劇学校は、不合格になってしまったといいます。受験当時、歌、踊りには申し分なかった笠置シヅ子さんですが、背が小さく、極度の痩せ型であったため、宝塚音楽歌劇学校側が、過酷な宝塚生活に耐えられないのではないかといった考えの元、不合格にしたようです。
しかし、「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団のかつての養成学校)を受験したところ合格した笠置シヅ子さんは、「三笠静子」の芸名で、娘役として『日本八景おどり』に出演し、初舞台を踏みました。その後は『秋のおどり・女鳴神』でスターの道へと進んでいきました。
笠置シヅ子さんというお名前は本名なのでしょう。本名でなく芸名であれば、笠置シヅ子さんの本名は何というのでしょう。気になる笠置シヅ子さんの本名について調べたところ、本名は「亀井静子」さんというようです。芸名には、本名の「静子」さんの部分は残したのですね。
笠置シヅ子さんは、「松竹楽劇部生徒養成所」で活動を始めた頃も、本名ではなく「三笠静子」という芸名で活動していたようですが、当時、崇仁親王が「三笠宮」を名乗ったことから、「三笠」を名乗ることに恐縮し、笠置シズ子という芸名にしたようです。
笠置シヅ子さんは、かつて愛した男性がいました。それが、吉本興業の創立者である吉本せいさんの息子である吉本穎右さんでした。笠置シヅ子さんと吉本穎右さんは、相思相愛であったにもかかわらず、吉本穎右さんを吉本興業の貢献者として育てたいという思いから、吉本せいさんに反対されていたようです。
結婚を誓い合い、子供も授かった笠置シヅ子さんと吉本穎右さんは、子供のためにも入籍をしたいと考えていたようですが、笠置シヅ子さんの妊娠中に吉本穎右さんが結核を悪化させたことから他界してしまいます。そのため、2人は、戸籍上の入籍をすることなく悲しい別れとなってしまいました。
笠置シヅ子さんと吉本穎右さんの結婚に反対していた吉本せいさんですが、実は、子供を授かった時期くらいから、笠置シヅ子さんが芸能界を引退することを条件に、結婚に対して容認しようという気持ちが生まれていたようです。しかし、当時吉本家は、戦後の財産税を申告すために財産整理で忙しかったため、吉本穎右さんが、気を遣い、吉本家の状態が落ち着いてから結婚の話を切り出そうとしていたようです。
吉本穎右さんは、残念ながら笠置シヅ子さんとの入籍が成立しないまま他界してしまいましたが、子供のために貯金していたとして、吉本興業の営業部長・前田米一に通帳と印鑑を渡していたようです。
そして、吉本穎右さんの他界後、吉本せいさんも子供のためを考えて吉本へ籍を入れようと考えたことから、吉本興業の関係者に入籍について調べてもらったようですが、認知するべき父親が死亡していると入籍は難しいということで、結局入籍は実現しなかったようです。でも、笠置シヅ子さんご自身が養女として育てられたことから、娘は自分の手で育てようと考えたことから娘さんは笠置シヅ子さんが育てることになったようです。
1954年、笠置シヅ子さんの娘さんに殺害予告が届いたとがあるようです。それは、笠置シヅ子さんの自宅前に「俺たちの結社で金が要るから天神橋下に6万円を置け。さもないと娘を殺すぞ」というものでした。当時の小学校の教員の給料は7800円という時代なので、6万円といえば大金ですよね。
笠置シヅ子さんは娘さんを守るために、世田谷署に通報し、犯人からの電話をテープレコーダーに録音し、要求されたお金を持って指定の場所に行ったといいます。そして、お金を渡したところを、変装して張り込んでいた警察により、犯人は逮捕されたそうです。娘さんが無事でよかったですね。
笠置シヅ子さんの娘さんは、1947年6月に生まれています。そのため、現在、生きておられるのであれば71歳になっていますね。
笠置シヅ子さんの娘さんは、吉本穎右さんにより「エイ子」と名づけられました。笠置シヅ子さんの娘さんの現在についてとても気になりますが、一般の方であるため、現在やこれまでの詳しい情報はありませんでした。しかし、NHK連続テレビ小説『わろてんか』のヒロインのモデルにもなった方なので、『わろてんか』を見るとエイ子さんの人生がわかるかもれませんね。
笠置シヅ子さんの娘さんのエイ子さんも、NHK連続テレビ小説『わろてんか』をご覧になったのではないでしょうか。
笠置シヅ子さんは、1985年に他界されています。他界されたのは70歳でした。笠置シヅ子さんの死因について調べたところ、卵巣がんであったうようですね。笠置シヅ子さんは、病床に伏せる中で、1985年のドラマ『昭和ラプソディ』を見ていたそうです。『昭和ラプソディ』は、音楽家服部良一さんの生涯を描いたドラマで、服部良一さんに曲を提供されていた笠置シヅ子さんも登場しました。
笠置シヅ子さんは、このドラマで、ご自身の役を演じる研ナオコさんをテレビで見ながら、「日劇時代は楽しかったね」と呟いたのが最後の言葉であったそうです。
戦後の沈んだ日本に、歌うことで元気をくれた歌姫・笠置シヅ子さん。現在もたくさんの方に愛され続けていますね。最愛の吉本穎右さんを亡くした後は生涯独身を貫いたそうです。謹んで、笠置シヅ子さんのご冥福をお祈りいたします。
サムネイル画像は下記より引用しました。
出典: https://www.instagram.com/p/BHJHhJwARVx/?hl=ja&tagged=%E7%AC%A0%E7%BD%AE%E3%82%B7%E3%83%85%E5%AD%90